先日、「旅と女と寅次郎」を見て「男はつらいよ」シリーズ48作劇場鑑賞を完遂いたしました。
初めて「男はつらいよ」を見たのが1978年高校3年の時だったので、かれこれ42年前。当時、寅さんにビタいち興味はなかったが、秋吉久美子のファンだった俺は「ワニと鸚鵡とおっとせい」って映画を見に行って寅さんと出会う。シリーズ第20作の「寅次郎頑張れ!」で、寅屋の面々にことの顛末を芝居がかって語り聞かせる渥美清の芸に衝撃を受ける。
こりゃスゲー!もっと見なあかんわとタウン誌で探して三宮の2番館に3本立てを見に行った。「相合い傘」「葛飾立志篇」「夕焼け小焼け」だったと思う。雷のような衝撃は薄らいだが、やっぱ面白かった。
しかし、そのあと公開された「わが道をゆく」「噂の寅次郎」「翔んでる寅次郎」を見て冷めた。ダメやんと思った。
大学生になって映画館でバイトするようになり、タダで見れることから惰性で見続ける。ルーティンの笑いがしんどくなり始めたが、それでもこの頃「かもめ唄」の感想をキネ旬に送って掲載には至らなかったが次点で名前だけ載って有頂天になった覚えがある。当時、俺は映研に身を置いていたが、「男はつらいよ」なんて誰も歯牙にもかけなかった。世はハスミンの表層批評が一大ブームとなり「誘惑のエクリチュール」や「シネマの記憶装置」はシネフィルたちの座右の書となっていた。
やがて、モラトリアムでいられる時代も過ぎて就職するとともに、急速に映画から遠ざかる。追いまくられる日々であったし、転勤で大阪を離れて映画を見れる環境も縮小した。そんななかでも、時折り思い出したように寅さんを見た覚えがある。奈良時代に「夜霧にむせぶ寅次郎」、長崎時代には「心の旅路」を見ている。精神的に追い詰められた時期でもあったが、この2作もシリーズ最底辺の出来であった。もうシリーズへの興味は失せてしまった。
絶望の淵を這いずり回るような日々が過ぎていくなか、大阪へ帰される。電車の中で聞こえる関西弁が心に沁みる。どこで喰っても飯が美味い。死の縁まで行き消えかけていた俺の命の灯火は再び僅かずつ燃え始めた。そんななか、久々に新世界で寅さんを見る。「口笛を吹く寅次郎」であったが余りの良さに驚愕。ルーティンも心地よいなあとか、再び身勝手にも思い始めて何本か見る。しかし、やがて渥美清の疲弊がスクリーンから色濃く滲み出し、満男と泉のどうでもいい恋が主軸になり萎えてしまった。
やがて、時が過ぎ、阪神大震災の年に結婚した俺は、転勤で山口へと赴く。結婚と地方赴任のWパンチで再び映画から遠ざかるなか、4度の浅丘ルリ子登板となった「紅の花」の公開はシリーズの終焉を予感させた。久々に寅さんを映画館に見に行った。予感どおりの手仕舞い感が横溢していた。それから間もなくして渥美清の訃報が発表され、追悼上映で未見の作を見た。
程なく会社が倒産し大阪へ戻る。再び映画熱が高まり、新世界とかでさほどの熱意もなく未見の作がかかれば見たりしてるうち、残り3作までこぎつけていた。今回のコロナ禍でかけるフィルムが欠乏したシネコンが旧作を積極的にかけるなかシリーズ全作上映を知る。長い年月の間に多分何度も見る機会があったのに敬遠していた3作品だったが、予想に反して佳品ばかりだった。
「旅と女と寅次郎」を見るまで、そんなことは露ほども考えなかったのだが、この映画の終盤、都はるみが寅屋の軒先で市井の人びとを前にアンコ椿を歌い出したとき、湧き上がった衝動に逆らえず俺は嗚咽していた。それは、もうこれで寅さんを見ることはなくなったのだという喪失感のようなものだったと思う。取り返しのつかないことをしてしまった気がした。
長い年月、忘れた頃に、魔が差したように見続けてきたシリーズだった。もう多分、見ることはないでしょう。ありがとさよなら。