男の痰壺

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グランド・ホテル

★★★★★ 2019年8月4日(日) プラネットスタジオプラス1

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今ではあたりまえのように使われる作劇の骨法、「グランドホテル形式」の語源となった、いわば始祖である。

始祖っていうのは往々にして、そのトピックだけが形骸として残り作品的価値は劣化してるものだからたいして期待もしてなかった。

のであるが、すごく良かった。

 

グレタ・ガルボであるが、恥ずかしながら初見です。

同時代に2大ミューズとして覇権を競ったディートリッヒがスタンバーグとか監督に恵まれて名作ぞろいなのに比べて、彼女の作品は見たいって気を起こさせるものが少なかったからだと思うのです。

で、思ってたのと違ってびっくりした。

美女は美女でも、お人形さんみたいなのではなく、個性派ギリギリの危うい均衡線上に位置する顔であって、たいそうに魅力的だ。

その彼女が前半は鬱の状態であるのだが、終盤に俄かに明るく華やぐあたり、まさに待ってましたと大向こうを唸らせる。

スターであります。

 

ジョーン・クロフォードにも驚いた。

俺の知ってる彼女は、「大砂塵」とか「血だらけの惨劇」とか、一種怪物と化した晩年であったので、このように魅力的な仕草やリアクションを見せる人やったんやなあの感慨を覚えた。

 

監督のエドマンド・グールディングってのも、あんまり知らんので期待もしてなかったが、開巻からの強烈な長回しで登場人物たちを点描していくあたり、やってくれるやんの力技である。

そして、以降は徹底的にオーソドックスを貫く。

 

映画は、下世話で流される人間たちの浮世の中で善とは何かを問う。

ってことでドストエフスキーはじめとした多くの作家が問い続けた同時代のテーゼの巧妙な置換であろう。

ムイシュキン公爵ならぬジョン・バリモアの男爵は最後に俗人ウォーレス・ビアリーの手にかかってこの世から退場させられる。

一見、悲観的な顛末だが、映画はそこに拘泥する隙を与えずに怒涛のように一気に終幕になだれ込む。

余韻を残す体言止めだった。

 

長回しの人物点描と 怒涛の各組退場が映画の両端で呼応する。苦境でも善性を捨てない男爵は鬱のプリマドンナに恋の特効薬を注入して退場。満を持してのガルボ大輪の開花がオーラを放ち出色。俗人・小物担当のクロフォードも良く始祖は伊達じゃない。(cinemascape)

 

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