男の痰壺

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沈黙

★★★ 2019年8月18日(日) シネヌーヴォ

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原作未読でスコセッシ版の映画は見ている。

俺は、スコセッシが原作をどのように解体したのかわからなかったのだが、この遠藤周作が脚本にかかわった篠田正浩版を見る限り、ほとんどのエピソードは同一であるし、言わんとしてることも同じに見える。

意外であった。

スコセッシが、この映画を見てたのかどうかは知らんが、こんなに同じなら撮る必要があったのだろうか。

 

主人公にかかわるメインの人物は3人だろう。

背教者キチジローと長崎奉行イノウエと棄教司祭フェレイラ。

キチジローは繰り返し主人公を裏切り、そのくせ性懲りもなく再三許しを請うというどうしようもないクソ野郎なのだが、彼の「平穏な時代なら自分は立派なクリスチャンとして生を全うできた」という言い分は一理あるのだ。

イノウエは理の解った冷徹漢だが、イエズス会の政策をポリティカルに分析し極東の島で覇権を広げる意図の非合理を説く。

フェレイラの主人公に投げる言葉は痛烈だ。お前が棄教しないのはイエスへの信仰からではなくイエズス会への政治的な利得行為だと喝破する。

かくして、主人公は「転ぶ」。

 

ベルイマンが神の不在を自問した映画と違って、これはきわめて政治的な映画だ。

それが、2作続けて見ることによって解った気がする。

 

スコセッシ版も、それほど買う俺ではないのだが、それでも豊富な資金を投じた分、厚みがあったんだなと思う。

それ以上に役者のコクが秀でていた。

キチジロー役は本作のマコ岩松に対して窪塚洋介、イノウエが本作の岡田英次に対してイッセー尾形、通詞が本作の戸浦六宏に対して浅野忠信と役者の艶が違う。

そして、何よりリーアム・ニーソンが演ったフェレイラが本作では何と!丹波哲郎なんですわ。ダメでしょうが。やっぱ。

いくらなんでも。

 

神の沈黙でなくイエズス会の政治力学上の布教にこそ転んで沈黙せよとの提言にも見えてくる。その構造的誤謬を喝破する領主イノウエの論理性こそ吉。全ての面で後年のスコセッシ版の先駆としての価値しか残存しないが、にしてもあの男の起用は有り得ない。(cinemascape)

 

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