男の痰壺

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永遠の門 ゴッホの見た未来

★★★★ 2019年11月8日(金) 大阪ステーションシティシネマ

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多分、全篇の9割くらいが手持ちカメラで、これが頻繁にパンニングする。被写体を追ってのそれではなく、被写体A→B、B→Aといったのをやるのでイラつく。

元来、手持ちの妙味ってのはライブ感であって、この映画にそれは必要か?

って思う。これは見終わった今の感想でも変わらない。

 

オスカー・アイザック扮するゴーギャンが言う。

「あんたのそれは絵じゃない、そんなにべっとり塗りたくって、まるで彫刻やん」

「なんで、そんなにせっつかれたように描く?もっと落ち着きなはれ」

マッツ・ミケルセン扮する聖職者が言う。

「正直言ってええ?あんたの絵きもちわるいわ」

 

まあ言うなれば、ゴッホは割かし近しい人からも否定されてたわけで、あんまり絵に関心がない人々から見れば狂人に近かった。

そんな、全否定のなかで生涯を終えた彼を、映画は生温かくは描かない。

諸説あるようだが、一種の先天性の精神疾患アスペルガーに近い解釈がなされているようだ。

ゴーギャンとの離反のあと、自らの耳を切った件と、そのあとの療養所の描写は過酷で峻烈である。

 

そんな彼を、それでも温かく見守った人たちもいた。

事件を起こしたあと、弟で画商のルパート・フレンドに抱かれるゴッホは幼子のよう。

映画最終部で登場するマチュー・アルマリックの医師も理解と慈愛をもって彼に接する。

あまりに孤独なゴッホの生涯での微かな救い。

 

生前、まったく評価されず、死後に認められた多くの芸術家は、映画のモチーフとして数多く取り上げられている。

そういったなかで、この作品は一種孤高の頂を目指してかなりに成功している。

なぜなら、描かれる対象と描く側の心魂が表層ではなく、深い内実において同期していると思われるからです。

 

撮影手法に疑問は感じるが熾烈な魂を刻印しようとする思いは感じる。全否定の中で世界から孤絶する絶望に向き合いながら生き急ぐようにキャンパスに色を重ね続けた彼と表層でなく内実で同期する。耳切りから療養院に至る生地獄の果ての刹那な安息が切ない。(cinemascape)

 

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