男の痰壺

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フェアウェル

★★★★★ 2020年10月9日(金) 大阪ステーションシティシネマ10

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現代社会において一族が集う機会は結婚式と葬式くらいなもんになっており、場合によっては何十年も会ってない親族が顔を合わせる。

数日間一緒にいて、その後散り散りに別れ滅多なことでは再び会うこともない。

であるから、得てしてその場では本音が剥き出されたりしてドラマが発生する。

映画が、好んで結婚式や葬式を取り上げるのは、そういうことだと思う。

 

本作も、主人公と祖母をめぐる主線のドラマの背景として、そういう一族の邂逅が肉厚に存在している。これがしみじみと素晴らしい。

死期が迫った老母に会うための孫のフェイク結婚式という特異な設定が効いて、集った者のベクトルが一定方向に向いて拡散か食い止められる。軋轢や衝突は抑制され、一族の一体感がたもたれる。

祖国の中国を離れ日本とアメリカに移住した兄弟が20数年ぶりに再会し結婚式の散会後に会場の片隅で想いを胸に止めていた煙草を燻らす。

そういった抑制的な感情の発露が幾つかのシーンで胸を打つような結実を見せていると思う。

 

主人公のオークワフィナは「クレイジー・リッチ」では、美人主人公の脇にいる、いとうあさこ似の3枚目キャラだった。本作では、等身大の女性を的確に演じている。アメリカで自己確立に苦しむ彼女が祖国の祖母に寄せる想いは監督の自己投影として映画の主軸であるのは必然だが、2人を取り巻く豊穣な人物群像の挿話に混在してこそ煌めいている。

 

昨年のアカデミー作品賞の候補になっていた作品だが、人種コードの考慮による裁定が働いたとの想像は粉砕された。予想をはるかに超えた素晴らしさであった。

 

一族の数十年ぶりの邂逅なら我が立ち拡散するところ、死期迫る老母への思いのベクトルに沿い同心円を形成する。フェイク披露宴のドタバタが映画を牽引する片隅で彼女の祖母への追慕はアイデンティティの揺らぎを確認させる。そこから始まる物語と消えゆく命。(cinemascape)

 

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