男の痰壺

映画の感想中心です

おもひでのしずく (2011年4月8日 (金))

※おもひでのしずく:以前書いたYahoo日記の再掲載です。

 

被災地から遠く離れて

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3月11日の昼3時前。
事務所の椅子でゆらりと世界がねじれる感覚を意識したが2日酔いで天井が回る感覚に近かった。
地震?」
事務員が俺を見て、気持ち悪げに胸をさすった。
「知らんがな…」
三陸沖で発生したマグニチュード9.0の衝撃波が1000kmの距離を走って大阪に到達した瞬間であった。
しかし、何事もなく仕事を続ける。
家に帰るとTVを見て津波で船が陸に打ち上げられる映像を見て俺は言った。
「劇ヤバちゃうん」
女房が言う。
「知らんがな…」

翌日の土曜、地震などそっちのけで、「仕事や」と言って家を出て、飛田と新世界で朝の9時過ぎから夜の7時前まで、ぶっ通しで映画を5本ハシゴした。
新世界国際では又も、おっさんに太ももをおさわりされ、後ろの席でチチ繰りあう親爺とオカマのあえぎ声にも悩まされ、映画に集中しようとしても、ジャッキー・チェンの「ラスト・ソルジャー」は余りにかったるかった。
疲れ果てて家に戻ると子供が熱を出していた。
地震どうなってん」
テレビの映像は正直、前日より数倍衝撃的であった。
「マジやばいやん」
「どうすんの」
「何が」
「子供…インフルエンザちゃう?」
「知らんがな…」

翌日の日曜の朝5時前に起こされる。
熱が40度を超えたとのことで、夜間診療所へ連れてけと言う。
「もう間に合わんやろ」
「5時半までやってる」
「30分ないやん…無理やて」
「大丈夫。行ったら何とかする」
俺は全く気乗りしなかったが、一応車を出して女房と子供を乗せて家を出た。
赤信号に何度かつかまり、瞬く間に時間は過ぎる。
何とか国道2号線に出たときには残り10分少々だった。
万事休す…と思ったが、いざ2号線を走り出すと前方に車が居ない。
淀川大橋の直線で自然と加速し100キロを超えた瞬間、俺のどこかのギアが入った。
一般道を120キロでぶっ飛ばし5つの信号をオール黄色でクリアしギリチョンで病院に入った。
子供はB型と判定され、リレンザを処方された。
報道される震災禍は深刻を極める。
「ひとりになっちゃった」と嗚咽する主婦や「お母さんだけでも帰ってきて」と淡々と語る子供や「妻と子供の手をつないで逃げたけど放してしまった」と放心する男性や多くの人々の哀しみが胸をかきむしる。
しかし、一方で余りの映像コンテンツの豊富さに一抹の疑念を覚えた。
これは、後に泉谷しげるが「映像コンテスト」と揶揄したことと大方同義である。

週央には、もう1人の子供と女房が発熱したが、「仕事休めるわけないやろ」と言って家を出て、仕事は休み映画に行った。
コーエン兄弟ラース・フォン・トリアーの映画をハシゴしたあと、「ブンミおじさんの森」を見に行く途中、子供から電話があった。
「帰られへん?」
「何で」
「お母さんやばいねん」
「…」
「セキ止まらへんねん」
「…」
電話をしてきた子供も熱出して寝てることを考えると、やましさを覚えたが
「仕事やねんから」
と電話を切る。
映画館の前まで行って暫し黙考。
結局、電話して「帰る」と言った。
そして、帰ったのだが、寝てる女房と子供の横で、結局は酒飲んで寝ただけだった。

異様なまでの自粛ムードの蔓延する中、週末の会議で、ある人が演壇で挨拶をした。
「なんや、こう…ずっと、しんどおましたな。皆さんもそうでっしゃろ。でもね、実は昨日、2泊で韓国行って帰って来ましたんやけど、少しふっきれた気がしますねん。被災地の人のこと心配するのも大事ですけど、僕は、やっぱりね、自分の仕事を死ぬ気で精いっぱいすることが大事やと思います。それで、せいぜいぎょうさん税金払うこってすわ。ちゃいますやろか皆さん」
その。おっさんはコテコテの船場言葉でそう言ったが、俺は少々感動してしまった。

あれから1か月近くが経ったが、事態は全然良くならない。
福島の原発事故に関して最悪のシナリオが世間を跋扈する。
北海道から愛知までが壊滅するかも知れないそうだ。
そんな事態が回避されても復興予算は数十兆だそうだが、まったく捻り出すことは不可能。
本当に日本は、もう終わりかもしれん。
でも、だからってどうするっての。
どうしようもござんせん。
明日は久々に映画館に身を埋めて過ごそう。