男の痰壺

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少女ムシェット

★★★★★ 2020年11月17日(火) テアトル梅田1

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ブレッソンをそんなに見てるわけではないが、これは今まで見た中でベストであるし、今年見た旧作の中でも最上位に置くだろう。

 

貧乏で悲惨ということを映画はけっこう好んで取り上げる。そして、この主人公の少女を取り巻く状況も貧乏で悲惨なのだが、この映画の傑出してるのは、徹底的な不寛容に行き着いてしまっているところで、彼女の外界に対する価値基準は憐憫や理解を拒絶するのだ。

だから、映画は通常の感情の行き来で形成されるドラマトゥルギーとは無縁の孤高に立っている。純粋に行為のみが映画を起動させる。

 

この映画では行動は往々にして反復される。

パブのカウンターでワインを飲む。

同級生に泥塊を投げつける。

電動カートでぶつかり合う。

 

ムシェットは何度か大粒の涙をポロポロ流すが、そのとき表情は無である。悲しいとか悔しいとかの表層の感情が極まり涙を流すのではない。もっと根っこの部分がダイレクトに反応してるみたい。

 

人の営為は、ほとんどが後付けで解読され修飾されていく。我々の生活はそういった欺瞞に満ちている。ブレッソンは、そういう欺瞞を剥ぎ取ったあとに残るものを呈示する。

だから、終局もあっけないほど唐突に訪れるし、水面の波紋は瞬く間に消え去るのだ。

 

不寛容に行き着いた感情は他者の言葉を受け容れないので一方通行で断ち切られる。逆に行為は映画的運動として執拗に繰り返される。遮断と反復が交互にやってきて後付け解釈の欺瞞を排除した純粋映画が完成される。だから、水面の波紋も瞬く間に消え去るのだ。(cinemascape)

 

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