男の痰壺

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チネチッタで会いましょう

★★★★ 2024年12月9日(月) テアトル梅田2

映画制作のあれやこれやってことで、随筆体映画と小説型映画を使い分けるモレッティの両者の統合型総決算とも言えるし、又かよの出涸らし的ルーティーンとも言える。

 

人間歳とると偏固になっていくもので、変化を受け入れられないし、なにかと言えば俺の若い時ゃよーとか宣い出すので若い奴等は辟易するわけである。主人公は正にそういう年寄り監督であり、女優が撮ってる映画の解釈に異議を唱えたりするとキレそうになる。若い奴の撮る映画は批判しまくるし、女房からは長いこと我慢してきたけどもうダメと三行半をつきつけられ所謂熟年離婚。なんとかなんねーかよーと恥も外聞もなく縋り付いてみたって後の祭りです。

 

モレッティはそういう自分を、こんなんじゃダメだね、と自己批判してるつもりなんだろうけど、とどのつまり本質何も変える気はない。フェリーニ「81/2」よろしく済し崩しの祝祭で終わる。

 

しかし、この映画おもんないかと言えばそうでもなく、それはモレッティの謂わば開き直ったような生き様が根っこにあるからで、済し崩しでもえーやんと思わせるからだ。広場で1人サッカーのボールリフティングを延々続けるシーンとか。

 

冒頭、オープンセットのハンガリーの街に電気が初めて通るシーン。トリュフォーアメリカの夜」みたい。ドゥミ「ローラ」のオープニングとフェリーニ甘い生活」のラストの映像の挿入。スコセッシに電話して居留守でブッチされる。などなどモレッティ映画好きやねんね。

 

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