男の痰壺

映画の感想中心です

★★★★ 2018年11月17日(土) テアトル梅田1
イメージ 1
銃を手に入れたとたんに、万能感に支配され身を滅ぼす。
ってモチーフは、大藪春彦とか始め繰り返されたモチーフで特に新しいもんでもない。
しかも、本作は銃に対するフェチズムも大して見られないし、人生変わってしまって破滅へ向かう悲愴もない。
 
悪漢をやっつけるでもなく、対象は死にかけの犬とかアパートの隣の部屋の子ども虐待女がいいところ。
まあ、ある意味それはそれでリアルだとは思う。
 
元来、主人公は親に捨てられ施設育ちで、それでも大学に通い、ダチに誘われればナンパに勤しむ。
授業はまあ、まじめに出て、でもバイトに明け暮れるわけでもなく、生活どないしてんねん的俗世からも隔絶してる。
虐待女に抱く怒りも内省的に沈殿し、いざやっちまうぞと思ったはいいが遂げられない。
 
こういう、ある意味しょーもない主人公を、演出はモノクロ映像で、それでも気取ることなく丁寧に描く。
ちょっと、そこが新しいと思った。
こういう手法で気障ったらしくないのは、たぶん人徳だと思うのだ。
 
終局の電車内のシーンでカラーに転調するのだが、ここは多分現実ではないとの見方でいいんだろう。
あまりに糞詰まり的展開ではさすがにしんどかったか。
でも、なんで村上淳をもってきたか?
親子共演が楽屋落ち的で少しシラケる。
 
銃を手にした爾後の変容を描くのでなく兼ねてよりの不安定な世界の均衡が延伸する様を描き続ける。彼には大学もSEXも親の死も等質に大した意味がない。そういう世界を内省的に深耕することなく描いたモノクロームは或る意味新しい。不穏な後藤淳平も。(cinemascape)