男の痰壺

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僕はイエス様が嫌い

★★★★ 2019年7月11日(木) 大阪ステーションシティシネマ
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挑戦的なタイトルであるが、宗教的なメッセージは無い。
これは、少年時代にあった些細な心の動きにかかわる贖罪の物語だ。
 
人間だれしも、「このヤローぶっ殺したろか」とか「なーに善人づらしやがって」とか思うことがある。
でも、めったに言葉に出して言わないし、ましてや実行したりはしない。
加えて、子供のころは、けっこう「残酷」に対して呵責がないので自己否定もしない。
 
主人公は東京から郊外の町へ引っ越してきて、ましてや初めて触れるミッション系の学校になじめない。
友達もなかなかできない。
そんな彼に声をかけてくれた1人の少年。
彼がまた、勉強もできて2枚目で性格もよくスポーツも万能なのであった。(しかも裕福)
まるで、「ちびまる子ちゃん」の大野けんいちくんみたいなもんで、隙がなさすぎで、若干ひねた主人公にとって唯一のともだちであるからありがたい存在なのだが、それでも嫉妬の萌芽は確実に芽生える。
 
映画は、その彼の心の動きを特にフィーチャーして取り上げる素振りは見せない。
ただ、些細な兆候のようなものを見せる。
神社で願い事をして、「何をお願いしたの?」と聞かれて口ごもる。
サッカーの試合のあと何故か1人で帰ってしまう。
 
些細な日常の積み重ねの中で、そういった点も見てるあいだは看過するさりげない描き方。
が、しかし、映画はそこで劇的に急転する。
 
澄み渡るような冷めた空気と静謐が支配する世界で悲劇は閉じていく。
最後のテロップで「友人に捧げる」といった内容のことばで、ああ、これは監督の実体験なんだとわかる。
誰もが、1つや2つもっている幼いころの悪意。
それに対する贖罪の気持ちは長い人生で忘却されてしまう。
これは、そういった気持ちを忘れないで真摯にみつめなおした作品だ。
 
贖罪という概念は大人になって知るもので、子供の頃は戸惑い事の消失を願うだけなのだ。出木杉君への嫉妬と羨望は小さな悪意となって心に宿る。父親の愛を得られてなかった事を知るが後の祭。これは十数年に亘る悔恨の吐露で、それを責める資格は誰にもない。(cinemascape)