男の痰壺

映画の感想中心です

スパイの妻 劇場版

★★★ 2020年10月20日(火) MOVIXあまがさき7

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「スパイの妻」とタイトルにうたっている。

その通り、これは妻である彼女の心理の変転劇なのだろうが、そこに納得性があるか、言い換えるなら観客を納得させ得るかが肝のはず。

で、やっぱダメやんと思った。

 

【以下ネタバレです】

満洲から帰国した夫に女の影を感じ不信を抱く。

②事実を打ち明けた夫を売国奴と詰り憲兵隊に密告。

③窮地に陥った夫に手を差し伸べアメリカへの亡命を計画。

と①②で夫へのマイナス感情が加速する聡子は③に至って大きくドライブして優位に立つ。と共に夫への愛も昂まる。

 

こういった感情の振幅を、黒沢はあるインタビューで、脚本段階では嫉妬心が起源となる増村的なドラマトゥルギーだったと言っている。「寝ても覚めても」のような曲玉を投げる濱口の脚本が本当にそうだったのかはともかく、実に明快な論理立てで、そういう風に撮られてたらと思わずにはいられないのです。

黒沢は、そういう風に撮りたくなかったと言っている。それは、言い換えるなら、そういう風に撮れないってことです。

 

映画は、③以降、更なるどんでん返しを用意して、とっ捕まった聡子が提出した証拠のフイルムが差し替えられていて、上映されるスクリーンの前で半狂乱の彼女が「お見事!」と大見得を切る。「サンセット大通り」のスワンソンもかくやのザ・女優的な見せ場だが、その台詞は③の過程で夫への不信がまだ残ってることの示唆がないので空転している。

 

つくづく惜しいと思えるのは、これはデヴィッド・リーンばりの大構えなバジェットで撮られるべき物語であったということで、満洲での出来事がモノクロ16ミリフイルムの断片でしか語られないとか、神戸空襲の惨事が1ショットのクロサワチック終末描写で済まされてしまう点。ミクロからマクロへ、再びミクロへといった視座の変転による映画のダイナミズムは放逐され箱庭的に収縮してしまった。

言っても詮無い事だが、そういう風に撮られるべき物語を自家籠中の節約話法で切り抜けてしまった感が否めないのです。