男の痰壺

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書かれた顔

★★★★ 2023年5月31日(水) シネヌーヴォ

玉三郎に大して関心がないし、そもそもに歌舞伎ってものにも興味がない俺であるが、ダニエル・シュミットには少しあった。学生の頃、イメージフォーラムとかリュミエールなんて雑誌を見てるとニュージャーマンシネマへの言及のなかでスイスでも新たな波がという文脈で語られてたように思う。「ラ・パロマ」とか見てみたいとは思ってましたがずっと未見でした。

 

予想外に、これは歌舞伎というものにそんな俺でも新たな興味をそそらせるものになっていて、シュミットの視点は下世話な興味本意やトンチンカンなリスペクトを超えてその本質のダイナミズムに真正面から対峙していて、真摯な異文化経由の視点は新鮮そのものである。

 

玉三郎という素の人間と彼が女形として演じる虚構の関係性がサスペンサブルに捕らえられる冒頭からの数十分はレナート・ベルタの銅版画めいた撮影も相まってエキサイティング。黒子や伴奏者のプロフェッショナルな居住まいも素晴らしい。歌舞伎ってええもんやなーと今更ながらに思わさせられるのであった。

 

以降、玉三郎と由縁のある(多分)人々、女優・舞踏家・芸者などのインタビュー&パフォーマンスがある。みんなご高齢で棺桶に片足突っ込んでるような人たちですから何だか黄泉の国から這いずり出てきたような趣きです。特に大野一雄はゾンビの舞のようで凄まじい。

 

「黄昏芸者情話」なる劇中劇もあって、玉三郎扮する芸者が2人の男から言い寄られてあっち行ったりこっち行ったりだが、これはどうもなと思いました。女形として舞台の虚構で映える玉三郎だが、生身の女はやはりきつい。「夜叉ヶ池」で露呈した過ちを又繰り返すのかと思った。そもそもに、彼自身が語る女形論みたいのも大したことを語ってないように思える。徹頭徹尾、虚構の存在でいてほしかった。

 

現身と虚構の境界がベルタの燻製めいた撮影により相互侵蝕・融解していく。そのエキサイティングな試行の中で数百年の歴史に埋没する芸能は新たな息吹を得るのだが、棺桶に片足突っ込んだ4人の芸・芸談の醸す終焉感。玉三郎は素材の一つに過ぎない。(cinemascape)

 

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