男の痰壺

映画の感想中心です

市子

★★★★ 2023年12月11日(月) シネリーブル梅田2

死んだ或いは失踪した男乃至は女が存在しない若くは全く違う人物であった。というツカミは一昨年の「ある男」と近似だが、あちらが当該の男以外の人物を物語の真ん中に併存させた為に焦点が拡散したように思たのに対し、こちらはがっつり市子中心なので強度があります。

 

【以下ネタバレです】

存在を消さなければならなかった「ある男」に対して存在を消されてしまった女が市子。

なぜそうなったかは、母親が出生届を出さなかったからで、DVにより夫から逃げた女性が妊娠してたらDV男を父親と認知しないと出生届が出せない。出すと居どころがバレてしまう。近年にも問題視された法制度の矛盾です。

 

映画は、直近の数年間を恋人として同棲していた男が突然失踪した市子を探すなかで明らかになる彼女の物語と、それとは別に映画の視点でも彼女を語っていく。それはそれでいい。叙法にとらわれずにガッツリ市子を語るのが目的なのだし、小学生・高校生・成人と時代を往還する構成は清張映画ばりに魅せる。

 

ただ、どこかスッキリしない蟠りを感じるのは、この映画が「ゴーンガール」に行くのか「砂の器」に向かうのかがわからない点で、映画の2/3あたりで気持ちの寄せ場を失いかける。「ゴーンガール」を志向しつつ「砂の器」を引きずってる感じ。こういう風にしか生きられないという桐野夏生的な今一つの振り切れが欲しかった。

 

市子の盗癖をはっきり否定する小学校時代の友人、全存在で市子を信じる新聞店の同僚など、この映画の女性たちは確固たる目力をもって自我が確立されているように見える。素晴らしいと思う。

 

砂の器』的に時制を往還しつつシステムから弾かれた者の居た堪れなさに寄り添う一方『ゴーンガール』のように失踪の果てからやさぐれ本性が立ち現れる。ともにコクある描写だが両者の接合点は見えない。印象的なのは取り巻く女たちの目力と確立された自我。(cinemascape)

 

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