男の痰壺

映画の感想中心です

長屋紳士録

★★★★★ 2024年3月3日(日) シネヌーヴォ

「晩春」以降の小津作品は大方見ていると思うのだが、戦前・戦中・戦後すぐあたりのはそんなに見ていない。これは、大戦から復員した小津の復帰作だそう。どうかと思ったが紛れもない傑作だった。

 

後期の作品は娘の縁談くらいしか悩みのない有産階級の悲喜交々が主題になっていくが、この頃は日本もボロボロだし、みんな貧乏だから思いも切実である。にもかかわらずユーモアと前向きな生きる活力を失わない。後年、棒と化していく笠智衆の「のぞきカラクリの唄」を延々1曲1カットで歌わせる件の長屋の人々のコラボなんて本当に小津の映画かと思わせる弾け方である。

 

親に棄てられた(?)と思しき子供を押し付けられた飯田蝶子が、その子供を棄てに行く件がいい。追い払ってもついてくる子供をだまくらかして貝を拾いに行かせ自分はトンズラここうとする。やれやれ厄介払いできたと海岸を見ると子供が猛ダッシュで追いかけてくる。そのロングショットのいじらしいまでの運動性。くたびれて海岸に腰を下ろした飯田の後ろ姿は「東京物語」の熱海の海岸に疲れて座る東山千栄子に重なる。

 

あらためて今回思ったのは小津の映画のダイアローグの過剰さで、本来は人間の感情を台詞で説明するのは粋じゃないと言われる。でも、対話の中で「あなた、こう思ってるでしょ」みたいなのをズバズバ言わせることが、小津のショットや編集の固有のフォルムに同期して極めてクールにロジカルに映る。何だか快感。

 

終局の展開も予想外だった。情が移った子供の親が現れて連れてかれる。気の抜けたような寂しさ。思わず涙する飯田蝶子は言う。寂しくて泣いてるんじゃない、いいお父さんで良かった。ここまでなら誰でも考えるのだが、そのあと彼女の言及は時代のもたらした個人主義的な世知辛さに及ぶ。ああ、小津の言いたかったことは、この戦後すぐの殺伐とした世の中に対する忸怩たる思いだったのかっちゅうことです。驚くほど気骨の入った直裁なメッセージ性。そして、映画は上野にたむろする多くの戦災孤児たちを映し出して終わるのだ。

 

子どもを棄てに行く件が傑出してる。疲れて土手に腰掛けた飯田の後姿が東山に連結する哀感や置き去りにされ猛ダッシュで追いかけてくる子のいじらしいまでの運動性。情の移った頃に親元へ還る子の幸せを願い利己に走る世相を諌める。何だか器が違う。(cinemascape)

 

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