男の痰壺

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12日の殺人

★★★★ 2024年3月18日(月) シネリーブル梅田3

映画が未解決の事件を描く場合、①独自の推測で犯人を想定する ②混迷し迷宮化する捜査に意味を付与して世界の混沌を提示する という大まかに2つの流れがあると思うのだが、本作はどちらも選んでいないように見える。

ドミニク・モルの前作「悪なき殺人」は殺人事件にまつわる複数の登場人物たちの錯綜する関わりを手練手管で描いたものであったが、本作は驚くほどに手練手管はナッシング。

捜査過程に浮上した容疑者たちはみんなアリバイが出てきて消えていく。刑事たちの日常も描かれるが、せいぜい同僚が妻との不和で悩んでいるくらいで、そっちを深掘りすることもない。

主人公の刑事はストレス解消に競輪場を自転車でグルグル走る。この描写が再三出てきてモノトーンな映画の流れを弥増させる。内省的な描写は沈降していきブレッソン田舎司祭の日記」あたりに近似していくかに思えてくる。

 

そういう映画であるということを全く想定してなかったので新鮮であった。

映画は終盤で、お蔵入りかと諦めつつある刑事たちに、新任の女性検事がもう一度捜査のし直しを命じる。その頃には捜査チームに新人の女性刑事も加わっている。ガソリンをかけられ焼き殺された若い女性の被害者に報いる為に、このままじゃ終わらせたくないとの思い。それだけが唯一の希望なのだ。

 

展開の手練手管を弄したモル前作と対称的に何も起こらない。容疑者は浮かぶが片っ端からアリバイに消されていく。刑事は自転車競技場の周回に沈降していき内省の日々は『田舎司祭の日記』。だが新たに加わる女たちにより捜査の活路は開けるかもしれない。(cinemascape)

 

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