男の痰壺

映画の感想中心です

悪は存在しない

★★★★★ 2024年5月23日(木) シネヌーヴォ

序盤で、地元の自然を熟知し何でも屋を生業とする巧役の大美賀均が薪を割る。1カットで何本も割りミスらないのは相当練習したんやろな思ったのだが、後半で開発業者の社員、高橋役の小坂竜士が巧の薪割りを見て自分にもやらせてくれと言い、でもてんで割れずに何度もトライする。巧が助言し言う通りにするとすんなり割れる。これも1カットであり、その割れる割れないを通しで見せる手際に少なからず驚愕した。

 

所詮、映画は虚構であるから必ずしも本物が映っている必要はないのだけど、作り手が観客を舐める手管としての虚構は見透かされる。おそらく大美賀や小坂は血豆を潰すような薪割りの練習をさせられたのだろう(知らんけど。)

こういった観客に対しての誠実さは、鹿や野鳥、木々や小川や湖沼の手抜きのないショットの連続にも表われており,監督濱口への信頼が俺の中で再確認されていく。

 

【以下ネタバレです】

映画の展開は多分に流れに任せるもので、都度主体は変わっていく。スローライフなエコ生活ってええよなーの巧と娘の花の日常から、開発業者によるキャンプ施設建設の住民説明会へと。この説明会も1から10まで懇切丁寧に見せるので対立構図を描く抗資本主義の社会派映画かと見紛うのだがリアリティが半端ないのでオモロい。

人間の普通の営為を淡々と描いて滅法オモロいってのは、小津やカウリスマキホン・サンスとかテキトーに思いつくのだが、その3人にはフォルムへの拘りとそこから派生する巧まざるユーモアがある。だが濱口にはそれらはない。ただひたすらに生真面目に人の営為の嘘偽りの無さを追い求めて、結果意図せざる可笑しみが表出してるように思える。

 

しかし、終盤で突然にして娘の失踪という非日常が現出する。しかも、その経緯はまるで「トトロ」のメイ失踪と「もののけ」のシシ神との対峙を足したようなものなのだ。まあ、それはそれで悪いとは言わないが、それでも娘は帰ってきました、手負の鹿と心通わせてました、みたいなスーパーナチュラルな迎合展開で済ます訳にはいかない。そこであの前代未聞の帰結で、濱口としてはああなるしかなかった。解釈は如何様にでもである。娘を抱き抱えて森を行く巧の荒い息遣いの主観ショットにドーンと「EVIL DOES NOT EXIT」のタイトル。ハッタリにしてもすごい大見得。

 

まあ、俺の解釈を一応言うと、あの娘と鹿の邂逅は巧以外の何者も見ちゃいかんもんだったんでしょうね。だから巧のとった行動には「悪は存在しない」と言うよりか「悪意の欠片もありゃしない」わけです。あの行為は必然であった。

 

篇中、俺が最も感嘆したのは、巧の説得を命じられた開発側の2人が向かう車中の長いシークェンスで、「ドライブ・マイ・カー」でも岡田の長い述懐が全く弛まないのと同様に吸引力が途切れない。しかも今回は滅法オモロイんです。

 

エコロジストたちの擬似共同体と企業論理の見え透いた強欲との対峙から転がり展開はミニマムな個人の生き方探しに。筆に任せて変転する物語は『トトロ』+『もののけ』に到達。となれば常道の帰結で納まれる訳ない。なのに濱口は誠実なのだ。天然である。(cinemascape)

 

kenironkun.hatenablog.com