男の痰壺

映画の感想中心です

★★★ 2023年10月21日(土) Tジョイ梅田3

相模原事件から着想を得た原作を更に石井裕也が脚色したものらしい。原作未読です。で、やっぱ本質には迫り得ていないと思いました。

俺は、あの事件を題材に小説なり映画を作るのであれば2つの切り口しかないと思うんです。1つは犯人の異常性とそれが形成された背景であり、もう1つは障がい者(それは更には高齢者にまで敷衍する切実な問題)の介護というものを巡る問題提起。

 

映画は其々ある程度は切り込んでいるが、それだけでは地獄の坩堝に落ちていくみたいなもんだから、宮沢りえオダギリジョー夫妻の話をかましている。そのかませ方が生半可なので問題を深掘りするのを回避してるようにしか見えません。人間は悲惨なもの、不快なものから目を逸らせて生きている、ということを二階堂ふみに言わせて、さあ宮沢りえはどうするねん止まりで、広く人間社会全体への問いかけにまで広がっていかないのが物足りない。

 

実際の犯人は明らかに特異な思想の持ち主だったんでしょうが、映画はその点も表層的にしか描けていない。自分の彼女が聴覚障がい者であること、施設の仕事に対しても前向きなように見えることなどと、障がい者を殺してでも社会から排除しないといけないという思想との自己矛盾はともかく、トリガーが入っていく過程が最大のポイントだと思うのだが、どうも曖昧なままである。誰でも彼奴殺したいと思うことがある。それが言い過ぎなら死んでまえばいいのにと。でも、実際に殺すことはないわけで、そこには岩盤のような隔壁がある。それが融解するところこそ突き詰めないといけないんじゃないか。

 

この題材に対しておっかなびっくりの感を拭いきれない。宮沢りえが編集者への忖度なしで、人が目を背けたいものだとしても書きたいものを書く。その決意はそれはそれでドラマチックだとは思うけど、相模原事件の現実と余りに重さが違いすぎる。

 

殺戮者に対する考察も介護を巡る言及も及び腰で、これなら宮沢りえに突きつけられた指摘はそのままに映画の作り手に跳ね返る。毒をもって毒を制するくらいの開き直りが欲しかった。申し訳ないが小説家の再生譚など取り上げた問題と比重が違いすぎるのだ。(cinemascape)

 

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