男の痰壺

映画の感想中心です

生きてるだけで、愛。

★★★★★ 2018年11月16日(金) 梅田ブルク7シアター4
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大仰で重っくるしいタイトルであるから、多少眉に唾つけて見始めたのだが。
篇中、主人公が言われる。
「あなた、よく今まで生きてこれたわね」
まったくそのとおりであって、そういう意味でこのタイトルに過重な修飾はない。
 
鬱という極めてセンシティブなものを扱っている。
そういう意味で語るに躊躇せざるを得ない題材だ。
 
こういう症状を発する人に社会生活において接した場合。
おおむね人は2極化せざるを得ない。
・避けるか排除する。
・理解を示す。
であるが、理解を示ししつつ逃げるか排除するってのが大半と思われる。
であるから、理解をして寄り添うことのできる人ってのは限定されるわけで、
医師とかある種の団体に属する人か、乃至は家族くらいであろう。
 
俺がもっとも反吐がでそうに感じるのは、理解しつつ逃げ・排除のサークルに身を置きつつ、言説的には理解し寄り添う人の尻馬にのっかっている輩です。
 
この映画が優れているのは、そういうカテゴリーの、どこにも属さない世界を描いているから。
 
菅田将暉演じる男は、どうして彼女と一緒にいるのか。
という疑問は、見てるあいだ俺は感じなかった。
「どうして私なんかと」の問いに
「自販機にドタマ打ち付け血流しながら走るお前を見てスゲェと思った」と彼は言うが、どうにも胡散臭い。
そんなんじゃなくって、この世界に男と女がごまんといて、そういうなかで凹と凸がかみ合った偶然と必然。
そういうものを描いてるんだと思う。
 
俺は、職場でおかしくなった奴らをけっこうな数見てるが、そんなん自己責任と思う。
遅刻や欠勤する奴らは即刻クビにする。
それが、鬱だからといって待ってやってる余裕なんてない。
そういう基準がスタンダードな世界で折り合っていくしかない。
この映画には、甘えや自己憐憫や、わかったような許容といった温さは微塵もないのだ。
 
均衡からウォシュレットで鬱に入り携帯破損で躁に変じる終盤の畳み掛けは文字通り怒涛。そういう女を断罪も寄り添いもしない演出こそが胆だ。数多の世の男と女のなかに凹と凸が噛み合う人たちがいる。そういう偶然と必然を只管に衒いなく真摯に描き切ってる。(cinemascape)