男の痰壺

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ルックバック

★★★★ 2024年7月3日(水) Tジョイ梅田6

【ネタバレです】

 

女ともだち2人の小学生時代から成年期までを描いて、片方の子が不慮の死を遂げる。

この構図は何年か前に映画化された「マイ・ブロークン・マリコ」に似ている。マリコが虐待されてた子どもだったのに対し、この映画の京本は引きこもり、という違いはあるが、主人公の女性はポン友の死に対して忸怩たる思いを抱いて生きていかねばならない。男友だち版としての「佐々木、イン、マイマイン」と併せて近年の友だちの死に対する自責映画2大傑作と思う次第です。

 

本作もそれらに連なる佳作とは思うが、なにぶん1時間の中篇であるから怒涛のように時間は端折られるわけで、思春期の時間経過の濃密さを描くに足りない気もします。

あからさまに「京アニ事件」をモチーフとして組み込んでいるが、そのへんも現実の被害者への哀惜の念が喚起されることはもちろん意味のあることだが、純粋なオリジナリティを阻害するようにも思えました。

 

秀でてるのは京本の造形である。彼女は対人恐怖症で引きこもってるのだが、自分の生き方を変える縁としての藤野との邂逅に死に物狂いで飛び込む。或いは、後半には藤野との蜜月を美大に行くとの決意から断ち切る。その汚れのない自我の芽生えの清しさに涙せずにはいられない。限りなく愛おしく、それだけに彼女を見舞う運命の不可逆の遣る瀬無さが身に染みるのだ。

 

映画は後半に藤野の、あのときああしてればのパラレルワールドが展開して生を全うできたはずの京本が描かれる。人は誰しも、あのときああしてれば、ああしなかったら、との思いを抱えて生きていく。俺なんてそんなことばかりである。でも、そういう思いに囚われ続けることはできない。仮想の中の京本は生き生きとして微笑んでいる。それが何よりもの彼女に対する追悼なのです。

 

運命に対して私が何をし得たかと自責の念を持つことは已むを得ない。だが、映画は京本を全肯定で描くことこそをだと言っている。その汚れのない自我の芽生えの清しさに涙せずにはいられない。限りなく愛おしく、それだけに運命の不可逆の遣る瀬無さが沁みる。(cinemascape)

 

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