男の痰壺

映画の感想中心です

メイド・イン・ホンコン

★★★★ 2018年4月7日(土) シネリーブル梅田4
イメージ 1
香港返還の1997年の製作であるが、そのことに何かを直截にメッセージしようという向きは見当たらない。
だが、そういう浮遊する状況に対する市民レベルでのモラトリアムな行き場の無さはあったようだ。
ただし、それが決して閉塞された悲観に彩られてるわけでもない。
 
この数年前に、ウォン・カーウァイの「恋する惑星」が製作されているが、あの天才的というしかない演出の煌めきは、本作のフルーツ・チャン演出にはない。
寧ろ、俺は、70年代の日本を覆っていた、微かな絶望と開き直りともいうべき虚無を感じていた。
ショーケンや優作や、乃至は中村雅俊がスクリーンやブラウン管の中を漂っていたあの空気である。
そういう意味で、これは優れて自覚的に遅れてきた映画なのであった。
 
下手すれば、鼻持ちならない意匠が迷彩されているのであるが、遅れてきた感が絶妙にカバーする。
自殺少女は、さして真摯に彼女の状況が突き詰められもせず物語の起動装置としてしか意味をなさない。
そして、それでいいんだと思わされる空気が蔓延している。
 
ショートカットのヒロインとのベッドシーンは明らかに「勝手にしやがれ」へのオマージュと思われる。
しかし、こっちのほうが俺にははるかに愛らしい。
 
150年に及ぶアイデンティティ存立の揺らぎが歓喜でも悲観でもなくモラトリアムな浮遊感覚でしか認識されぬことが、その20年前の日米欧の能天気な終末観に近似することで優れて自覚的に遅れてきた映画足り得ている。その遅れこそが不可逆的な価値を為す。(cinemascape)