★★★★★ 2019年4月12日(金) シネマート心斎橋2
微妙といえば微妙な立ち位置に立った作品である。
監督のキュアロンは富裕層の出であると思われるし、事実、これは自伝的な映画とされている。
そこで、あえて、インディオの貧しい召使の女性を主人公にしたことがひっかかる。
なんて言い出すと野暮なので言わない。
でも、これがアメリカの物語で富裕な白人一家と召使の黒人女性の物語であったら、世界はこれほどに諸手を挙げて賞賛し切れていたか?っていうと微妙。
真に圧倒的といっていい出来だ。
出来すぎでいやらしいほどに。
多くのギミックがこれでもかというくらいにちりばめられる。
「1970年」
「モノクロ」
「劇伴なしで効果音としてのラジオやレコードの音楽のみ」
「避暑と山火事」
「反政府の革命」
「ロケット男」
「カンフーならぬ何故かの日本武術」
「大進撃と宇宙からの脱出」
「犬のうんこ」etc…。
今年、ピエトロ・ジェルミの「イタリア式離婚狂想曲」を見て、60年代のイタリア映画の豊穣にあらためて参った俺は、この映画のモノクロに同じ匂いをかぐ。
階級差の厳然としてあった時代の貧富両層の混在と、それが失われゆく時代の流れ。
ノスタルジーなる言葉でくくりたくないが、それでもこの懐旧的ロマンティシズムにはやられる。
終盤、大騒乱下での破水から病院での顛末と家族旅行での海辺での出来事。
ここで、映画の主人公の過酷な顛末と再生は、あらゆる予断を粉砕するエモーションを放っている。
特に、海岸での顛末は、どうやって撮ったのかの興趣と相俟って没入が避けられないグルーヴ感だ。
Netflix制作で公開形態が物議をかもした映画だが劇場公開されありがたかった。
映画のフォルムや時代設定に連関するギミックを縦横に駆使して厭らしいくらいに行き届いた60年代イタリア映画的な芳香。階級崩壊の予兆とノスタルジアは立ち位置の微妙を糊塗する。終盤の2つの顛末描写の圧倒的力業と女性賛歌の前に我々は平伏すしかない。(cinemascape)