男の痰壺

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誰もがそれを知っている

★★★★ 2019年6月19日(水) テアトル梅田2
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ファルハディの過去作に比べ評価は今いちみたいだ。
この監督の映画は、緊密に練りこまれた脚本の綾の一方で、画面造形の統御も特性だと思う。
それには、数人の人物の配置が好ましい。
であるが、本作の前半は結婚式のパーティが延々と続く。
そこでは、何十人もの人間が入り乱れる。
この部分が、けっこう退屈なのだ。
 
たとえば、アルトマンの後年の作品では、そういうシチュエーションが好んで取り上げられた。
そういうときに、おそらくアルトマンは画面内の全てを統御しようとしていない。
場が産む偶発性とかをカメラマンに切り取らせているように思うのだ。
この映画のパーティシーンがつまらなく感じられるのはファルハディが全てを統御しようとして、創外の何かを画面の中に取り込むことができなかったからだ。
 
しかし、事件が起こってからは、ドラマトゥルギーが徐々に発露を始める。
男たちは外交的な笑みを消し、女たちはよそ行きの化粧がはがれスッピンになる。
そして、いつもの究極の選択にさらされる。
ここが、ファルハディの独壇場。
 
バルデムの置かれた状況と、彼の為した決断に世の中の男たちは身震いし、しかし映画内の彼と同期して苦渋の納得をするだろう。
いやいや、すべての男が浮気して隠し子もってるわけじゃないんですがね。
それでも、あの女房のリアクションは痛烈でキリキリ来る。
くわばらくわばらと唱えるしかないのだ。
 
面白味のない結婚パーティがファルハディの弱点を露呈させる前半だが、混沌の中からバルデムの葛藤に焦点が絞られる終盤の作劇の喰えなさで映画は幾何数級的にダイナミズムを取り戻す。決断の納得性故にこそ全ての男どもは心胆凍りつかざるを得ない。(cinemascape)