男の痰壺

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アイリッシュマン

★★★ 2019年11月25日(月) シネマート心斎橋

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以前、スコセッシはフィルムへの拘りを語る作家だった。

はずであるが、そういう拘りの人なら、当然にスクリーン投影の映画館主義であってもいいはずなのに、NET配信映画になびいた。

かわりに、明後日の方角のマーベル批判をぶちかまして、正直老残だと思う。

おおかた、この映画に出資せずマーベルの子供映画には大金をつぎこむ映画会社への忸怩たる思いがあったのだろうが、実際に見てみると、そりゃそうやろうこれには金出さんわなあと思ってしまう。

 

主人公たちの老人時代と壮年期が錯綜する構成だが、分量的には若い時代の方が多い。

そこを最近はやりのCGをおっ被せて若返らせているわけで、まあ、メーキャップの進化形なのだと割り切ればいいのだが、ヘタにリアルなだけにかえって疑問。

だって、こういう流れの行き着く先はフルCGで役者不要になっちまわねえかと思うし、そんな映画ばっか見せられた日にゃあ、わたしゃあ映画なんて見る気が失せるんじゃなかろうか。

顔は若くても演じてるのは老人だから、自分の娘をたたいたとかいうパン屋の親父をデ・ニーロがボコボコにする件なんて、嘗ての切れは失せて動きはヨタヨタして、こりゃああきませんってなもんなのだ。

 

このデ・ニーロ演じる男とアル・パチーノの演るホッファというトラック会社の労組の親玉の絆と行き着いた無残な終焉が軸なのだが、なら、前半の伸し上がっていく過程はもっと切れなかったろうか。あるいは、かつての「グッドフェローズ」や「ディパーテッド」並みの切れのある編集でグイグイ引き込んでこくれないかと思ってしまう。

 

まあ、どっちにしたってこういう老人の同窓会めいたもんなら違う題材にしてほしかったと思います。

 

ヨタつく物腰が若作りCG仮面劇の虚構を露呈させる伸し上がり壮年期が無駄に長く嘗てのビートの効いた編集リズムも無い。憎からぬ奴とののっぴきならない顛末に全てが収斂されるべきなのにブツ切りの点描に終始して展開のダイナミズムは生じようがないのだ。(cinemascape)

 

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